「信仰生活」  04.07.18
            ルカ17:1〜10

 弟子に向かって、そして主に従おうとする私たち信仰者に向かって、
主イエスは「つまずきは避けられない」とおっしゃいます。なお脆さを
抱え続ける私たちのことをよくご存知です。主は、傲慢になるのではなく、
強がるのでもなく、神の助けを必要とする弱さを認め、「試みに遭わせず、
悪より救い出し給え」と祈りつつ、ご自身に従ってくるようにとおっしゃいます。

 主は、人をつまずかせることがどんなに罪深いことかおっしゃいます。
「つまずかせる」とは、どのようなことでしょう。人を罪へと誘惑することも
一つですが、それだけではありません。主は続けて、罪を犯した者を赦す
ことをお話になりました(3~4節)。「赦さないこと」が「つまずかせること」と
関係があるからです。人を裁き、断罪で終わって、赦しに至らない戒めは、
主がおっしゃる戒めではありません。パウロは、「過ちを犯し罰を受けた者を
赦さなければ、サタンのやり口にはまってしまう」と言います(Uコリ2:10)。
赦しのない裁きは、主の十字架の福音を消し、疑わせるからです。「自分の
罪は赦されない…。」そのように十字架による罪の赦しを疑わせることは、
サタンの一番の願いであり、「つまずかせる」ことでもあります。

 そもそも、つまずきを避けられない弱い私たちです。つまずき、罪を犯し、
不信仰になっても、その度に主に赦していただいた者です。それを喜び生きて
いる私たちが、どうして人を裁くだけで終われるでしょうか。主の赦しを指し示さず
にはいられません。主は「赦してやりなさい」とおっしゃいます。「あなたがたは、
何度も赦されているじゃないか。だから、赦す者として生きられるだろう…。」
そんな、主の言葉です。主の十字架の赦しを指し示していく所に、信仰生活の
基本的な道筋があるのではないでしょうか。

 
人を赦すことは、簡単ではありません。
 しかし、神に向き合い、神の愛と赦しの恵みに満たされ味わう中で、
その道は必ず開かれてきます。
 神がそのような心を生み出してくださいます。家庭でも職場でもです。